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時間という共作者

あなたが見ているのは、彼が描いたあの紙ではない

モンマジュールの紫インクはほぼ見えないまでに褪せ、パリの青い紙は汚れた黄に変わり、桃の花の桃色は蒸発して白い点だけが残った。百三十年の光と酸化がこれらの素描を書き換え続けている——だがその書き換えの一部は、かえって彼の制作方法を初めて私たちに見せてくれる。

1888年5月、フィンセントはアルル郊外のモンマジュールの丘に何度も登り、中世の修道院の廃墟を一組の素描に描いた。南仏での最初の野心作だった。

今日、この連作のうち数枚はファン・ゴッホ美術館の収蔵庫で、研究者によって残酷なカテゴリーに分類されている。図像としてもはや読み取れないもの。紙の上にはごく淡い痕跡だけが残る。水で洗われた記憶のように。

だが、それらがかつてまったく別の姿だったことを、二つの記録が証明している。テオの未亡人ヨハンナは1907年と1909年の二度、収蔵品の目録を作り、これらの素描の欄に色を書き留めた——。さらに遡って1901年、ロッテルダムの展覧会では、ある批評家が紫インクで描かれた五枚を名指しで賞賛している。

紫はいま、二つの場所にだけ生き残っている。かつてマット(台紙)に覆われていた画面の縁の細い帯と、紙の繊維の奥——2005年、ラマン分光がそこからアニリン由来の有機化合物を検出した。

アニリン。1856年にコールタールから生まれた合成染料であり、十九世紀後半で最も流行した色の源。すみれ色、モーヴ、紫——印象派の時代の新しいスペクトルである。これらのインクは鮮やかで、よく流れ、安価で、そして製造者たちが最初から知っていた唯一の欠点があった。光にさらされれば、死ぬ。

それでもフィンセントはこれを選んだ。彼が欲しかったのはその瞬間の鮮やかさであり、利息は時間が取り立てていった。

あまねく進む褐変

モンマジュールの紫は最も極端な例だが、孤立した例ではない。彼の素描は全体として、緩慢な化学的書き換えのさなかにある。

最も広く進んでいるのは褐変だ。ニューネン時代のペン画は没食子インクで描かれた。八世紀にわたって使われてきたこのインクには有名な気性がある。書いた直後は濃い黒か黒に近い深褐色、それが酸化とともに赤褐色、灰褐色へと褪せていく。今日私たちが見る「褐色調」のニューネン素描のうち、彼のペンを離れたときに褐色だったものは一枚もない。

そして、まさにこの褪色が、ひとつの秘密を漏らした。

《刈り込まれた白樺》のような紙面では、インクの線のかたわらに大量の黒鉛——鉛筆の線が走っている。褐色が支配する現在の画面に対して、この灰黒色の線は理屈に合わず、調子外れに見える。だが頭の中でインクを黒に戻してみれば、すべてが解ける。黒いインクと灰色の黒鉛は、もともと意図して組み合わされた音色だった。一方が骨格を、他方が量感と地面と影を受け持つ。

ここから、長く見過ごされてきた事実が逆算できる。彼の手の中で、鉛筆は決して単なる下描きではなかった。ふつう素描家はペンを入れる前に鉛筆の跡を消す。彼はほとんど消さなかった——黒鉛は構図の正式な一員であり、「黒で描く」ことのひとつの声部だった。この制作方法がこれほど明瞭に見えるのは、ほかならぬインクが褪せたからである。研究者たちは印象的な言葉を使っている。この種の変形は、ほとんど「怪我の功名」なのだと。

パリの青

1887年初頭のパリで、彼は都市風景の素描を連作し、ほとんど誰も知らない色彩実験を行った——実験の土台そのものが、もう存在しないからだ。

《ガンゲット酒場》《バタイユ食堂の窓》《クリシー大通り》。三枚はいずれも青灰色の紙に描かれた。今日、その青はほぼ完全に消え、紙面は汚れた黄から黄褐色へと変じ、縁にわずかな原色の糸が残るだけである。

2005年、研究者がコンピュータで紙の色を復元したとき、覆い隠されていた実験がふたたび姿を現した。彼は青い紙の上に、濃淡をたがえた青いチョークで描いていた——青の上に青、同時対比の構築。そこへ補色のオレンジを数筆だけ打ち込み、画面を起こす。当時、油彩で猛練習していたあの色彩の科学を、そのまま紙に移したものだ。《クリシー大通り》には対応する油彩まであり、ごく淡い青の下地の上に描かれている。

復元図を現状の隣に置いてみる。汚れた黄の地の上で、青いチョークの線は粗く、唐突に見え、和声は跡形もない。紙がかつて青かったと知らなければ、これを出来損ないの素描だと思うだろう。紙の褪色は単なる損耗ではない。緻密な実験を、不器用な失敗へと降格させることができる。

蒸発した桃の花

最も切ない例はアルルにある。

1888年4月、彼は《桃色の桃の木》を描いた。亡くなったばかりの義従兄、かつて彼を教えた画家アントン・マウフェに捧げる絵——額には「Souvenir de Mauve(マウフェの思い出に)」と記された。彼はこの絵の水彩版を紙の上に作っている。

桃の花の桃色は当時の合成顔料だった。あでやかで、そしてアニリンの紫と同じく短命。百年あまりが過ぎて——油彩のほうの桃の花は、少なくとも厚塗りの白い盛り上がりとして残った。色は去っても、花の肉体はまだ枝にある。だが水彩に厚塗りはない。紙の上の版では、桃色は痕跡を残してほぼ蒸発し、枝は裸になり、生き残った白い点が空の位置に浮かんでいる。もう花には見えない。雲に見える。

春の絵が、時間の手で冬に書き換えられた。

皺もまた記録である

物質の変化のすべてが損失ではない。証拠になるものもある。

ハーグ時代、彼は目の粗い厚手の水彩紙(フランス語で torchon と呼ばれる)を好んだ。紙を濡らして描き、水で黒鉛とチョークを手なずける習慣を身につけていたからだ。結果として紙面は膨れ、皺が寄る——この凹凸自体が、彼の制作方法の化石である。後世の修復家がこれらの素描を平らに伸ばそうとしたことについて、研究者は明言している。それは誤りだ。皺は破損ではなく、工程の記録である。

同じ時期の《疲れ果てて》(Worn Out——両手で頭を抱えた養老院の老人)の紙面には、人物のまわりに定着液の染みの輪が見え、黒鉛には異様な光沢がある。彼は鉛筆の反射を抑えるために、黒鉛の上に牛乳を刷いていた。生活の知恵そのままの土法である。モデルの名前さえ調べがつく。アドリアヌス・ザイデルラント、ハーグ時代に何十回も彼のためにポーズをとった養老院の住人。一枚の紙の上に、牛乳から染み、遠近法フレームの格子線まで、工程の指紋がすべて残っている。

なぜ、よりにもよって彼なのか

十九世紀の紙の作品はどれも光を恐れる。だが彼の素描は際立って深く傷ついた。研究者は二つの理由を挙げており、合わせると皮肉に近い。

第一に、彼の素描は重要すぎた。同時代のたいていの画家にとって、素描は油彩の準備であり付属物だった。彼にとって素描は油彩と対等の相棒である——これは美術史の共通見解だ。ゆえに百年以上、世界中の展覧会が彼の素描を借りたがった。展示の一回一回が、光の被曝である。

第二に、彼はよりにもよってペンとインクを最も愛した——そしてインクこそ、光に最も敏感な画材である。これほど脆い技法を制作の中心にこれほど近く置いたモダニストは、ほかにいない。彼の紙作品の傷つきやすさに比肩するのは、水彩を専門にしたセザンヌくらいのものだ。

見られる度合いが、損なわれる速度を決めた。

囚人と光

1894年、ベルギーの建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデはヨハンナを訪ね、まだ額装されていない素描の山を見せられた。彼がのちに書き残した文章は、この紙の束についての最良の描写であり続けている。

「あの無造作な、縁の毛羽立った紙たちは、電気を帯びていた。一枚ずつ手に取るたび、それは私たちの手から身をよじって逃れようとしているかのようだった——長く闇に幽閉された囚人が、白昼の光の中へ狂おしく逃れ出ようとするように。

今日この文章を読むと、ヴァン・デ・ヴェルデには予見しようのなかった皮肉が一枚加わる。紙たちは本当に光の中へ逃げ出した——そしてその光こそが、それらを少しずつ殺してきたのだ。

だから、ここでは「原画を見る」という言葉を定義し直す必要がある。美術館であなたが見ているあの紙は、百三十年あまり続いて今も止まらない化学反応の、現在のひとコマである。フィンセントが描いたあの紙——紫のモンマジュール、青のパリ、桃色の花——は、1888年のある午後の中に、ヨハンナの目録の中に、手紙の記述の中に、そして分光器が繊維の奥から引き上げる数個の分子の中にだけ、存在している。

これは悪い知らせばかりではない。インクが褪せたから、鉛筆の声部が初めてはっきり聞こえるようになった。紙が皺立ったから、水で描く彼の現場が保存された。台紙の縁が、紫の物証を封印しておいてくれた。時間は原作の一部を壊し、同じ手つきで、別の一部のために証言した。

時間は破壊者であるだけではない。この素描たちに残された、最後の共作者である——ただし、決して署名しない。

出典について 本稿の素材は、メトロポリタン美術館とファン・ゴッホ美術館による2005年の展覧会図録 Vincent van Gogh: The Drawings に拠る。主たる典拠は Sjraar van Heugten の論文「Metamorphoses: Van Gogh's Drawings Then and Now」(パリ素描の紙色のコンピュータ復元研究を含む)、および Marjorie Shelley と Silvia A. Centeno による材料検査報告(蛍光X線、ラマン分光、赤外反射撮影)。ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲルの目録記録と1901年ロッテルダム展評は同書の注に拠る。